文理のこうさてん

人文科学と自然科学のこうさてんを目指していきたい。

論理と理性の限界、直感と感性の可能性について

最近、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』という本を読了して、自分がもやもやと感じていた「論理的思考力の限界」について、数多くの示唆を得ることができたので共有。

 

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以下、はじめに紹介するのは、これからの時代、「理性・論理」ではなく「感性・直感」が重要視される3つの根拠である。

 

論理的理性的な情報処理スキルは限界にきている

本によれば、論理的理性的な情報処理スキルは、「正解のコモディティー化」と「方法論としての限界」の二つの側面から限界にきているらしい。

 

前者に関して、正解がありふれたものになっているという意味だが、論理で出した答えは客観的に見て正しいものなので、ある命題に対して、誰が思考しても同じ答えしか出ない。そのため、同じ答えが溢れている世の中になってしまっている。故に差別化がしづらい。

 

後者に関して、世の中の不確実性がましていき、世の中に動いている変数が限りない数に近づいていくにつれて、論理的思考力は限界を迎えているという指摘がある。このような構図は、「VUCA」、すなわち、Volatility(変動)、Uncertainty(不確実)、Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)が蔓延しているカオスな世の中を示す造語でも表されている。

 

世界中の市場が自己実現的消費に向かいつつある

世界中に同じような商品が溢れている影響で、顧客が重要視している商品は「その存在で自分を自分たらしめるもの」に移り始めている。例えば、「macをスタバでいじっている私」はそれだけで自分を示すステータスになる。このような時代において、人々が重視するのは、「その商品が自分のなりたい理想像に近づけてくれるかどうか」である。

 

システムの変化にルールの制定が追いつかない状況が発生している

AIやブロックチェーンといった新技術の登場によって、現行のルールは既に時代に追いついていけていない。そのような時に、グレーゾーンを攻めることによって利益を受けるのではなく、自分の中に「真善美」を持って状況を判断することが求められる。

 

サイエンスよりもアートが優先される時代

上記3点から、「理性・論理」は限界にきていると筆者は主張する。「理性・論理」が「サイエンス」だとすると、「感性・直感」は「アート」である。またまたmacの霊になってしまうが、macbookを「サイエンス」で説明することは不可能である。あの商品は、ジョブズの「真善美」によって感じ取られた「アート」の部分を商品化したことによって生まれたものである。

 

これからの時代は、「サイエンス」的な考えによって生み出されたものよりも、「アート」的な考えから生み出されたものが受け入れられていくことに関しては、個人的には納得感は高い。

 

僕たち大学生はどうすればいいのか

僕たち大学生は「アート」を鍛えるためには、何をすればいいのだろうか。

 

まず前置きとして、僕個人の意見を述べておくと、論理的思考力、すなわち「サイエンス」の側面は全員身につけておいたほうがいいと思う。よく「ロジカルシンキング」とも言われているが、この能力は日本でインターンしていた時も、海外でインターンしている時も、必須能力だった(そしてこの能力がないと多くの場面で痛い目にあう)ので、論理的思考力は身につけるべきであろう。僕は論理的思考力を鍛えるために、本を5冊くらい読んで、実際のインターンの現場でアウトプットしまくった結果、ある程度はましな思考ができるようになった。

 

問題はその先である。僕たちは「サイエンス」の先に「アート」を見なければいけない。これはまさに僕も最近、特にビジネス面において感じていたことなのだが、「サイエンス」だけではどうも物事はうまく回らないのである。

 

僕たちに必要なのは、「サイエンス」に熟知した上で、必要な時に「アート」の考え方すなわち、「美しさや楽しさ、いいねと思う感覚が意思決定の基準になる」ような思考をすることだと考える。

 

アートの力というのは「哲学・文学・詩・美術」など、数多くの「正解がない問題」について思考することで磨かれるらしいし、小説が大好きな自分は上記意見にある程度は納得感を持つことができる。哲学と美術に関しては未開拓分野&興味が以前からあるがなかなか学べない領域なので少し勉強してみようかなと思いました。